考えたこと

セクマイとチック症とマイノリティ|僕がマイノリティについて思うこと

セクマイはもっと認められていくべき はじめに自分のスタンスを言っておくと「セクマイはもっと社会に容認されるべき」と思っています。

社会に容認されるべき、というよりも、セクマイを容認できる社会になるべき。

僕にはセクシュアルマイノリティの友達が何人もいるけど、彼らは彼らであり、セクマイだからと言って何が変わるわけでもない。

そんな友達たちがもっと住みやすい世界になればいいなと思っています。

かくいう自分もチック症というマイノリティである

なぜ僕がセクシュアルマイノリティという言葉に興味を持ち、応援しているかというと、自分もある種のマイノリティだから。

僕は小さいころから、今でもチック症(トゥレット症候群)という病気を患っている。

チック症についてはググると出て来るので見て欲しい。Youtubeとか動画だとわかりやすい。

自分がチック症だということは別に隠しているわけでもなく、聞かれたら答えるし、変に話して心配されてしまっても嫌だな〜と思い言うタイミングがなかった、というのが正直なところ。

本旨がずれるので詳しくは掘り下げないけど、チック症によって地獄のような嫌な思いをしてきたし、理解者がいなくて苦しんだこともある。そういう意味では自分もマイノリティで、セクマイの人と共感できる部分もあるのかな?と勝手に思っている。

だから、先に触れたこと(マイノリティをネタにすること)も自分を例に考えている。

例えばチック症の人が襲ったのならば「チック症患者に襲われた。チック症のくせに。」と書かれているのと同じだろうな〜と。

そのうえで、それは事実だったら仕方がないことだと思う。むしろそのことを変に伏せられて語られた方が嫌な気がする。

正しい区別をもってはじめて正しい理解がある

ぼくはマイノリティは差別されるべきではないが、区別はされるべきだと思っている

むしろ正しい区別をもってこそ正しい理解が得られるんじゃないかな。

だって違うのは事実だから。違うのに、違うことがまるでなかったかのように、見たくないものをを蓋で隠すように振る舞うのではなくて、違うことを互いに認めた上で付き合う方がよっぽど気持ちが良いはず。

これは自分の例だけど、僕がチック症だということを彼女は知っていて、症状がひどい時は「今日はチックちょっと多くでてるね」と言うこともある。

チック症に触れることがまるで禁忌かのように互いに気を使って、感じているのに全く言わないよりも、よっぽどお互いストレスのない関係性でいられる。

「差別はいけない!」という言葉の上辺の意味だけを捉えて「みんな一緒だよ!」的なノリに縛られんじゃなくて、チック症はチック症。ゲイはゲイで違うことをそのまま受け入れて、その上で付き合う。これが一番自然なんじゃないかな。

もちろん土台になる関係性も大事だし、当人がまず自分を受け入れる必要があるわけだけど。

社会もマイノリティを「知る」フェーズから「認める」フェーズに移りはじめている

社会がマイノリティを容認するまでにまずは存在を「知る」→「認める」 というフェーズがあって、セクマイに関しては多分今は「知る」フェーズの終わりくらいにいるんじゃないかと。だからこれからは「認める」ことが必要になってくる。

今回はセクマイについて書き、自分がチック症といういわゆるマイノリティであることを書いた。けど、2つとも名前が付いているだけで、他の人もみんな何かしらの面でマイノリティだと言える部分があるはず。

それが名前が付いているか、いないか。顕在的か、潜在的か。の違いしかないと思う。

セクマイか、ストレートかなんて背が高いか、低いかの違いと同じこと。

セクマイが社会で容認されるためには「セクマイが!セクマイが!」と存在を叫ばれる、いわゆる世の中がセクマイを知るフェーズがさっさと終わり、認められ、セクマイについて特別語られない必要がある。

僕が目が細くていじられるように、セクマイとかチックでいじられる。そんなくらいの世の中がちょうど良いんじゃないかなと思うのです。

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